190420幸せについてなど

その他の様々なことを書こう。

昼間は頭痛やだるさが著しかったため、ソファに横になり、タブレットを漫然とスクロールしていた。こういう惰性的な行為をやめたくて、スマホをやめてタブレットにしたのだけど、実質あまり状況は変わっていない。

私は、このブログのいちばん初期の頃に書いたように、情報の許容量が極端に小さいので、積極的に情報を得に行こうということをなかなかしない。

とはいっても、もういい加減、読みもしないFacebookを意味もなく何度も開いて一日の大半を過ごすというのはあんまりにもあんまりだ、猿以下だと呆れ果て、ちょっと違うことをしてみようと、好きなpha氏のブログを久しぶりに開いてみた。

氏のだるそうなローテンションに久しぶりに接して、なんだか私の生存が認められるような気がしたと言うか、救われるような気持ちになった。

彼はすごい。暗い、だるいと自分で書きながら、あんなふうにブレないでいられるというのは、簡単なようでいて相当のことだと思う。

私はといえば、SNSでも実生活でも、他人の目線に気を遣いまくって、自分というものがおろそかになってしまっている、それどころか自分を自身で疎外してしまっているような状況なので、彼のブレなさが眩しく見える。

 

夕方から少し体調が回復してきたので、机の前に座って、暗くなりつつある小屋の中で、暮れていく夕日をカーテン越しに眺めながらぼうっとしていた。

夕方は気持ちがふっと落ち着き、急にちゃんと地に足がつくような感じがする。自分が戻ってきた感じ。もしくは近くに来ていて、戻ってきそうな感じというか。

こういう時間を逃さずに、自分のことをちゃんと見てあげるようにしよう。

これはちょっとした努力だ。気をそらすいろいろな誘惑にのらず、きちんと時間をとって、自分に必要と感じたことを、惜しみなく、忠実に、やってあげるよう心がけること。

じっと動かずに、心の動きも止めて、純粋に今ここにある自分を感じる。

最近になって、特定のやりかた(座禅とか、ヴィパッサナーなど)にそんなにこだわらなくてもいいと思うようになった。ただ自分がそうしたいと思うあり方でいい。

知人から借りた、細川貂々さんという人の漫画に「幸せという感じを染み込ませるように感じる」というようなことが書いてあったのを思い出す。

しみこませるように。しみじみと、幸せを感じる。これはいい。やってみよう。

私も細川さんとよく似ていて、幸せということがピンとこない、ネガティブがデフォルトの人間なので、参考になる。

幸せを感じるのも、身体の感覚を逐一感じるヴィパッサナー瞑想にも似ているかもしれない。

本当はあるのに感じてやってないだけ。今ここでも、耳をすませばほんのかすかでも「幸せ」を感じられるかもしれない。

幸せ教が嫌いだった。巷によく流布している、幸せを感じよう、幸せと口に出そう、というのには恩着せがましさや胡散臭さを感じてしまい、近づけないでいた。

というか何か、彼らの「幸せ」が、私のネガティブや不幸さを否定する、私の存在を脅かすのではないかと恐れていた。

実際そういうことはあった(気がする)。私の発するただならない不幸オーラを感じると、彼らは私を異端者扱いする(ように感じた)。本当はそうではなかったのだと思うけど、私にはそのように感じられてしまった。

幸せになろうとさえすればいいのに。でも私はそうする気になれなかった。なぜかわからないけれど。

ウツの人に頑張れというなというのに似ている気もする。特に、落ち込んでいるときとか調子が悪いときに、そういった幸せ教のことを思い出すと、なお辛くなり自分を責めてしまうので、幸せ教とは距離を置くことにした。まあ、そんなものだと思う。

ヴィパッサナー瞑想で、感覚を感じても、それに執着してはいけないと言うように、幸せを感じても、それに執着してはいけないのかもしれない。

引き寄せの法則と言うけど、あまりに幸せ、幸せと引き寄せようとするのは怖い。

子どもの頃から、テレビに出ているスピリチュアル系のアドバイスをする芸能人などを見ると、その笑顔がなにかお面のように見えて、怪しいと思うタイプだった。

あまりにキラキラ眩しいような感じより、ちょっとくたっとしてナチュラルで、少し暗いぐらいの人や物のほうが好きだったりする。

洋服も、きらびやかなものよりシャビーな綿の古着が好きだし、ピカピカの建造物より、錆びたり朽ちたりしているもののほうが好き。

幸せの話からだいぶ飛んでしまった。

・・・

私は最近かなりしんどい状況にあった。

風邪を引いていることが大きいと思うけれど、ここにいること自体がしんどい。これは、きつい。

ヴィパッサナーのことを思い出して、辛いのも感覚に過ぎない、平静にやり過ごそう、と修道僧のようにうやうやしく身動きするが、その努力もむなしく、存在全体が、蟻地獄の穴のような「しんどさ」に否応なく滑り落ちていこうとする、この感じ。

思えば子どもの頃から、その傾向があったと思う。なんというか存在そのものからしてネガティブな子供だったのだ。(当時から腸が弱かったことと関係していると思う。)

一時期、幸せ教に入信しかけて、そうした愚痴やネガティブを謹んでいたときもある。そうしたらネガティブスパイラルには一定の歯止めがかかり、運気が安定した感じはする。(でも今思うと、東京から京都に移住したのと、幸せ教に入信しかけたのがほぼ同時期だったので、たんに東京が合わず京都が合っていただけかもしれない。)

最近になって再び、しんどいと口にするようになった。ネガティブ全開のときもある。

意味もなく落ち込んでいたわけではなく、移動が多いことや、住環境に安心感が得られなかったこと、車の事故や友人たちとのトラブルなど、いくつかの要因が重なって起きている。

存亡の危機。できることは、ただただ、祈るように、一歩一歩あるくように、この世界、この空気や日の光や草木とともにある、自分の体と魂を感じていくのみ。

 

嘘のような事故をしたり、体調が悪くてアホみたいにしんどいと、この世界は現実というよりヴァーチャルリアリティなのではないかという気がしてくる。しんどいwwwwという。

そして、私、私と言っているけど、私というのはそんなに本当にあるんだろうか、とか。そんなアホみたいなしんどさとか、嘘みたいな事故に主体なんかあるのかな、とか。そんなつらさに主語があると思うともうバカバカしくてやってられない、というような。

我を張って、人生の終わりまでにやらなければならない仕事は、とか考えていても埒が明かないのではないか。

仕事は、たくさんの人間のつながりのなかで、必要なものとして発生してくるものであって、私個人がやり遂げるものと言うものではそもそもないような気がする。

などというのは、そうした自分の仕事を未だ見つけられていない焦りからかもしれないけれど。

実際は、自分の仕事を見つけ、それに長く取り組んでいる人を見るととても羨ましい。特に心理学分野の研究者など。

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仕事、結婚、生活、住まい。

こうしたことを考えていると気持ちが焦ってくるので、あまりむやみに考えないほうがいいのかも。

仕事があり、パートナーのいる生活、か。・・・