190526

無気力がまだ続いている。
困窮している友人から連絡があった。倒れてしまい、生活がままならない様子。
こちらも無気力なので、ただちに対策することができない。
のらりくらりと、Amazonでレトルト食品いくつかを彼女に送った。

みな余裕がないのだと思った。自分のことで精一杯。
私は自分の狭い小屋の中をかたづける気力がない。セルフネグレクト一歩手前。
物を必要最小限にしたい、と思う。

無気力はどうしようもないのか。
無気力でいる自分を責めてもいけないし、ただ妥協して甘んじるのもよくない。
貝のようにじっと身を潜めて、無気力が過ぎ去るのを待つのが賢いのか。
無気力は、何もない状態というより、無気力というものがあると考えたほうがいいのか。
無気力が台頭するとか、無気力が席巻してくるとか。
そうしたら少し、建設的な気持ちになる気もする。
無気力の中を生きている。無気力という、生のあり方。

文章を書いていると、ドパミンが放出されるのか、気持ちがシャンとしてくる。
書くしかできない、と誰かが書いていた。
書くしかない。

身体に酸素を行き渡らせ、血行を促すことが、生きるためにはとても重要だと思う、
そのためになにかしたいが、やれていない。
たった一人では、いかんともし難い。ひとりでヨガをやったり、ストレッチをできるような人間だったら、それは私ではない誰かだ。そういう人間になりたかった。
「こうすればいい」とアドバイスを他人にするけれど、そういう時、それが自分だからできることであって、相手ができるわけではないことを、ついつい忘れがちだ。
できないことは、できない場合がある。
プラスアルファをしてやれば、簡単にできたりする。
もう何年も、10年以上、同じ主張をしているけれど。
水をやらなければ種から芽が出ないように。
プラスアルファの鍵を握っているのが、他人とか場所だったりする。

そういう場所をどう作るか。

・・・

夕方になって、急に無気力の膜が破れて、気力が出てきた。
モノづくりを始めたのがよかったのかもしれない。
昼下がりに、友人と電話しながら(この時はまだ無気力だった)、手持ち無沙汰に机の上を探っていると、作りかけだったデニムの袋があることに気づき、
電話が終わってから、他にすることもないので続きを作り始めた。
すると突然、生き返ったのだった。
いろいろなことが蘇ってきた。旅に出る前考えていたこと。
山梨で小屋づくりを手伝うはずだったこと。モノづくりをもっとやりたかったこと。
そう、もっと手や感覚を使う作業に集中したかったのだった。
それを忘れていた。
だから、生きる気力をなくしていたのだ。
一日のうち、モノを作る時間があると、とてもいいみたいだ。バランスがいい。
人間にはなにかしら、手を動かしてモノをこしらえることが、健康的に生きていくために必要なのかもしれない。
書くばかりでは病んでしまう。
車の事故がきっかけで、山梨や長野でのDIYの世界からは思いがけず遠ざかってしまった。
そうこうするうち、念頭に置いていた、建設系のモノづくりの道もいつのまにか、遠くなっていた感じがする。
その代わりに、ものを書く機会が増え、居場所づくりの活動をする人たちとコネクションができた。
それはそれで良かったと思う。
けれど、モノを作ることを忘れないでいたいと思う。
ここ最近、なにか消化不良感というか、釈然としない感じがあったのは、そのためだったと思う。
創作することは、生きる糧・・

ここ最近、時間が立つのが早い。
するりと通り抜けてしまう。
こんなに早いと感じるのは、これまでになかったかも。
逃げないように、感じきり、味わわないと、と思う。
するすると、日々が過ぎてしまうのでは惜しい。
なんとかならないのか、と思う。

時間を濃密にするための魔法はないか。

それにしても頭がスッキリしている。
眠くさえなければ、もっと起きていろいろ、無気力な時間にできなかったことを取り返すのに。
やっと、まともに生きている感じがする。
自分は本来このぐらいスッキリしていた。
思い出した。

下手をすると、無気力モードのまま一生過ごしてしまう可能性もある。

190525

体調がだいぶ回復してきた。

昨日病院に行って抗生物質をもらってきたのがきいているのか。

普段、体調が悪くてもめったに病院には行かないのだが、今回、治りが遅いし怪しいので、これはまずいなと思い駆け込んだ。

やはり体調が悪い時は病院へ行ったほうがいいのかもしれない。

とはいえ、まだ本調子ではない。精神的にも絶好調とは言えない。

考えたり、創造的な試みをやったり、瞑想をしたりする余裕が生まれない。

生きているのか、夢を見ているのか判然としない。

とりあえず、頼まれている記事を少しずつこなし、あまりに暑い昼下がりは横になってまどろみ、夕方に散歩がてら買い物に出る。それらの行為も、確信があって、心地よくやっているというより、そうしたほうがいいというぼんやりとした義務感からやっている感じ。

心地よい感覚とか、波に乗っている感覚、何かに動かされているような感覚が戻ってきてほしい。

昔から、絵を描くときでも、自然に手が動いて一気に仕上げる感じが好きだった。頭で考えながら、計算しながらチマチマやるのは好きじゃない。霊感が味方するような感じが好き。

少しずつ調子を戻そう。

旅に出る前はいい感じだったが、道中、疲れたり、焦ったりいろいろあったからか、自分がどこかに散らばってしまっている。

東京に行くとあまりいいことがないな…

無理して合わせようとせず、水の合った場所でくつろぎ過ごすのがよいのだろうな。

 

自分を取り戻すための鍵、スイッチはどこにあるのかなと思う。

スイッチを押されないと、何ヶ月、何年もそのままでいてしまう。

ひとたびスイッチを押せば、こんな自分がいたのかと思うほど激烈なキャラクターが飛び出してくるから驚く。

今は彼らは各小部屋の中に横たわって眠っているのだ。起こされることを願いながら。

彼らは不老不死だ。60になっても、スイッチさえ押せばそのままの姿で現れるだろう。

ダンサーもいるし、音楽家もいる。セクシー担当もいる(まだほとんど現れたことがないが、いる)。モノづくりの職人もいる。仕事人もいるはずだが、あまり現れない。

他人はとやかく言うが、一番は、自分が納得して自分らしくあること、あろうとすることだとわかった。私の場合は、自閉的であるので、あまり外の何かを模倣しようとしたりするよりも、内的なものを突き詰めていったほうが逆に早いのが分かっている。

その内的な動きが、世間一般的なメソードで目指すところと結果的に同じであればなおよい。

自分で見つけていく。

本当に若いときなら、ある程度外側から型を作ってそこにはめ込んでいくのもいいと思う。でも、それには遅い年齢というのもあると思う。

自己流は、いい場合も悪い場合もあるが、模倣が上手く行かない場合、とりあえず自分で試行錯誤して、曲がりくねりながらも、極みに近づけるよう努力するのがベター。

大検を受けて大学に入学するようなものだ。

旅に出る前あたりに、「閉じる」ということを毎日書いていた時期があったが、私の場合は閉じることがすべからく大切。自分の中のミクロコスモスを見つめ、その振動に心を合わせることが不可欠だ。

 

 

 

 

190524

生理前だからか、どうにも不機嫌が止まらない。

このブログは、生きるために書いている。

人に見せるべきものではあまりなかった。

人から理解されることは難しいのだなと思う。

哲学者とか心理学者の本がたくさん出ているけれど、それは多分彼ら自身のための思想、彼ら自身が生きるための思想なのだと思えた。

だからそもそも、他人がどうこう言うべきものでは本来ないのかもしれない。

にもかかわらず、哲学者や心理学者は、その思想が世界で一番のようにして、自分の主張を通そうとするし、周りも周りでやいのやいの言う。

男だなと思う。

まあ、彼らが自分のために見つけた思想が、周りにも良い波及効果を及ぼすなら、それはそれでいいと思うし、

各人は自分に合った思想を見つけて、それぞれに信じていけばいい。

 

なんだか疲れてしまった。

 

シェアハウスでは、あまり私はシェアメイトから歓迎されていないようだ。

どうしてかわからないが、子どもの頃からそういうことがよくある。

仲良くなりたくて話しかけても、どんどん話しかけても、仲良くなってくれない。

私に興味がないのだ。でも、それが私にはわからない。

なぜそうなるのか、誰か教えてほしい。

たぶん、仲良くなるやり方が、普通と違っているのだと思う。

学校時代ずっと、特定の人(だいたいおなじ発達障害者だった)を除いて、誰とも仲良くなることができなかった。

今も同じ感じだ。

何らかのパーティーだとか、会議だとか、そういうところだったらまだ、話しかけて仲良くなることができる。

でも、普段ずっと一緒に過ごすような学校とか、生活の場とか、そういうところで仲間を見つけづらいのだ。

最近はそれでも、だいたいは誰かと仲良くなるようになっている。

でもシェアハウスは例外だ。

相手が男性だからだろうか?

興味のない女には話したくないのだろうか。

私がオールドミスだから、近づかれたら嫌なのかもしれない。

誰だって、若い異性と話したいのは当たり前だし。

年をとるってそういうことなのか。

なんだか、やるせないな。

シェアハウスの居心地が悪くなってきた。

190523

ようやく今日の夕方から、体と頭が動かせるようになった。

やっと回復してきたのだ。

少しずつ仕事(ほぼボラティア状態だが)を始めるが、やはり体調が悪いときの何倍も効率が良いことが分かる。健康第一なのだ。体調が悪いと、本当に何もできない。

体調が悪いと、機嫌も悪くなり、大切な友達にも当たり散らしてしまったりして、すべてを失うことになる。

いろいろ考えていて、貧困の連鎖、とよく言うけれど本当だなあと思った。

貧困、無知、病気、虐待といった負の連鎖。

対する、富、知、健康、幸せの連鎖。

格差、ということを(おめでたいことに)あまりこれまで感じたことがなかったのだが、最近、恵まれた立場の人たちと接することが増え、さすがの自分もぼんやりと感じるようになってきた。

ぼんやり、というのがまたなんとも言えないが。

同世代で、一見似たような主張をしているけれど、彼らはそもそも新卒から良い企業に就職し、その上で、それらから卒業して、自分の事業として、シェアリングの活動をしている。

対して私は、空白の10年、そこでもがき回るようにして、なんとか生き延びるためにシェアリングの活動をやってきた。

大学卒業後の10年で、この開き。

そもそもなんで、こうなったのか?

自分ははじめから、就職する気がなかった。なんでか?

企業で働くことが、まったくピンとこなかった。普通なら多くの人が、企業で働こうと思うはずなのに、どうしてか私は、働いている自分の姿が全く想像できなかった。

そして、どうしても、自分が苦しんできた思春期時代を取り返すために、何らかの研究とか、勉強をしたいと思い続けて、道に迷ってしまったのだった。

理不尽な心身の病気に苦しむ人を助けたい。

今もその思いはあって、心理関係の仕事をしたいな、と思いはするけれど、スクールに通って資格をとれるとは思えないので、心の中の夢にとどめている。

そういう、心の中の密かな夢、が大人になるとだんだん増えてくるようだ。

20代、仕事が続かなくて苦労したけれど、今は方向性が定まってきて、あの時よりは幸せでいる。

体調が悪い日が昔より増えて、体がしんどいことは多いけれど…

忙しいので、恋人がいないとか独身でいることにコンプレックスを持つ暇すらない。

友人たちと楽しく過ごせて。幸せなのだと思う。

190522体調不良

今日一日、ほとんど寝込んでいてまともに活動できなかった。

頭が痛く、熱っぽく、口が乾き、体じゅうだるく、思うように動けない。精神的にもネガティブになりやすい。

頭痛が一番やっかい。動くと頭が痛いので、自分に必要なことができず、QOLが下がる。

食事も買いに行けない。床を整えたり、そうした生活全般ができなくなる。下手をすると死ぬ。

体調の悪い自分を責めてしまう。自分が自己管理をできていないから、こうなると思ってしまう。

何にせよ、人よりできないことが多かったので、何かあると自分が悪いと思ってしまう。

体調が悪くなると、いろいろな健康法の講座などに通っていたときのことが思い出され、講師たちの「こうしたほうがいい」「これがからだにいい」といったアドバイスが、逆に「そうしないから悪い」「自業自得だ」といった責めの言葉となって蘇ってくる。

アダルトチルドレンについて解説しているページを読んでいたら、親が良かれと思って手出し、口出しすることを、子どもは「あなたはそのままではだめだ」というメッセージとして受け取ってしまうと書いてあった。健康法のことも、それと似ていると思う。

良かれと思ってアドバイスすることで、その時はアドバイスされた方も「そうか、そうしよう」と思うけれど、それがどうしてもできない時とか、そのまま悪い状態になってしまった場合、アドバイスのことを思い出し、できなかった自分を責めてしまう。

子育てもそうだけれど、微妙な、難しいところだと思う。

人によって、手出し口出ししたり、アドバイスしたりすることの向き不向きがあるのだと思う。

私は大人なので、後になって責め苦となって返ってくるような高圧的な健康講座などには行かないことを選択できるが、子どもだった場合は、それを選択することができない。なので、相手が子どもの場合は注意が必要だと思う。

子どもによっても、ちょっとやそっとではめげない強い精神力を持つ人もいるが、私のように、触れただけで崩れてしまうような脆い人間もいる。生まれつき決まっているのだ。

そうした性質を無視してはいけない。子どもをよく観察した上で、対応していかなくていけない。

たいへん難易度の高いことだと思う。とても自分にはできそうもない。

もう少し、拡張家族の考えが世間一般に普及している時代であったら、そして自分が健康な20代であったら、子どもを生むことも考えたかもしれない。

残念ながら、そうするには私は少し早く生まれすぎた。

今生は、そうした新しい考えが、より早く世間一般に浸透し、後に続く人たちが、より住みやすい世界を作れるよう、仲間をつくって力を尽くしていくことにしよう。

そのための体調不良であったり、発達障害であると考えたい。

・・・

しばらく忘れていたが、私の目標は、特に女性が、体調が悪いときもお金がないときも、安心して横になる場所があり、助けてくれる人がいるような住まいを作ることだった。

体調不良になってみて、それを思い出した。今の自分に切実に必要なのだ。

シェアハウスは一人暮らしよりは心強いような気もするけれど、真の安心安全とはまだ程遠い。

都会のシェアハウスで、シェアメイトとの交流薄く、栄養のないジャンクフードを食べて、ハウスダストにまみれて生活するのは、一人暮らしをするのとそう変わらない。

今私は現に、身の危険を感じる。このままでは危ない。

この危機感を感じるのは久しぶりだ。収入源がなくなることと関係しているかもしれない。

失業保険をもらうようになってからは、多少の体調不良があっても、このままではまずいという切実な、本能的な危機感を感じることがあまりなかったように思う。

この危機感は、とても嫌な感じだ。

 

書いていて、自分はこうした嫌な感じとか不快感に対して、恐怖を持っていることに気がついた。

誰でも不快感は嫌いだと思うけれど、自分の場合特に抵抗が強いように思う。

今も体調が悪く、頭痛がし、気分が悪くどうしようもない。これに対して、時折我慢ができなくなり、パニックを起こしてしまうことがある。パニックになると、症状がよけい強くなり、ショック状態のようになることがある。発作のようになり、救急車を呼ぶことになる。

自分は身体的な不快感が耐え難い。

体が小さいせいかもしれないとか、いろいろ考えるが、わからない。

とにかく、あらゆる不快を人生から追い出したい、と常に願っている感覚がある。

旅から帰って、生活がまだ軌道に乗っていないが、できることなら小さな快適な小屋に入って、規則正しく、あらゆる不快とか予想外の来客(人に限らず。ネズミとか、日光とかいろいろ)がふいにやってくる可能性を極力排除したい。

住み開きとは対極にあるように思えるが、そんな私が住み開きに魅力を感じ、探し求めるのはなぜだろう。

たぶん、助け合えるということが自分にとっては大切なのだと想う。

人と一緒に住むことというより、目の届く近くにいて、何かあったら援護を頼める。

現にそれが必要だ。身の回りのことがちゃんとできない。食事を誰かが持ってきてくれれば。

でも、それを頼める関係性ではない。もちろん、頼めば誰かしら、助けてくれるに違いない。でも私側の気持ちの問題で、助けを求めることを遠慮してしまうのだ。

体調が悪くなると、ただ生きるだけでも本当に限りなく、いろいろなことをこなさなくてはならないということに気づく。歯を磨く、水を飲む、シャツをズボンに入れるなど…

そして、それらの一つでもできないと、QOL感が一気に下がる。生きることはすごくエネルギーのいることだ。

セルフネグレクト、という言葉を最近知った。

孤独死に関するレポート記事で読んだのだけど、なんとなくその言葉に違和感を持った。

私にとっては、普通に生きるということが既にすごくハードルが高い事で、特別なこと、すごいこと。

普通の人にとっては、生きることは空気を吸うのと同じぐらい簡単で自然なことで、そうできなくなることが異常事態で、だから「ネグレクト」なんて強い言葉を使ってしまえるのかもしれないが。

普通の人から見ると、私の自然状態はセルフネグレクトなのかもしれない。

人間は、道具を使って自分の生活を便利にしたり工夫したりするのが本能だということが言われている。快適になるように工夫することが、その天性であるという。

私も一応人間なので、ある程度その性質を備えてはいるが、なにか生活の本当に基本的なところで躓きがあると感じることがある。だいぶ昔よりは改善されたとは思うけれど。

体調が悪いのに、寒いと感じているのに、書き続けてしまったり、ネットをやめられなかったり、

お風呂に入らない、歯を磨くことが未だに生活に取り入れられていない、などいろいろ。

その結果として体調不良があり、悪循環を重ねてしまう。自分を責めるが、仕方がない。

 

今日はこのぐらいにしよう。

昼間は泥のように寝てしまう。夕方頃になると、電池がきれるようにふわりと眠気に襲われ、その心地よさに抗し切れず眠ってしまう。眠っても、体調は良くならない。

ネズミが小屋の中で動き回り、物を食い荒らしている音が聞こえると、恐怖とストレスを感じる。あんな小さい生き物なのに、私に脅威を与えるには充分。

ネズミのためにからだじゅうダニに刺されたことも、ネズミへの恐怖をつのらす原因となった。

予想しなかった害悪を突然もたらすものが怖い。

190521帰還

きのう、ようやく京都の自分の小屋に帰ってきて、机に向かうことができるようになった。

長い旅だった。車を使わなかったので、特にそう思うのかもしれない。

そして、これまででいちばん濃い旅だった。いろんな人に出会い、いろんな場所に行った。

それらを思い出し、まとめる作業も必要だ。

 

小屋に帰ると、ネズミが布団の中に潜り込んでおり、それのせいで体じゅうダニに刺され大変だった。クッションに尿の匂いもしみていた。

昼は温室のように暑くなり、夜は寒い。ネズミのせいか、その他の原因かわからないが、昼寝をして起きると、風邪を引いたのか頭痛がしてきている。

旅の間は風邪を引かなかったのに、帰ってくるなり罹患する。

この小屋はそろそろ、快適ではなくなってきつつある。快適なすみかに移りたい。

大学を出てから、この10年間、移動や移住の多い生活だったと振り返る。定住しても、1年程度で移動する場合が多かったように思う。

先祖や前世が移動民族だったのか。

 

こうやって書くことは、私にとって心の拠り所となっている。体が書くことを求めていた。

3大欲求の他に、書きたいという欲求が私にはあるらしい。

若い頃は3大欲求が激しく、他の欲求はそれに比べて取るに足りないものだったが、3大欲求が薄くなってきた代わりに、書きたいとか作りたい、瞑想したいといった欲が、ウズウズとくすぶるようになってきた。

長いこと、書いたり瞑想したりできないでいると、欲求不満感がして落ち着かなくなってくる。

長い我慢の末、やっとそれらができるようになると、一気にストンと落ち着き、機嫌が良くなるのだ。

 

190427

夜1時過ぎまで起きていて、一日の終わりに更新している。

今日は寒の戻りがあり、夜は冷え込んでいる。

先日、友人たちと京北に出かけてからか、精神的には以前から転じて良い状態が戻ってきている。

気持ちがスッとして、世界がはっきり見える感じ。昼寝をしたりするからだろうか。

今日の朝から生理が始まっている。といってもまた1、2日で済んでしまうのだろうか。

生理になると独特の精神状態が現れる。いつもよりクリアになるときもあるし、なにか苛立っているときもある。

今回はかなりクリア。生理的な状態が精神に及ぼす影響はとても大きいことがわかる。

考えがいつもよりはっきりして、人格がなんだかサバサバしている。

頭で物事を考えるのが普段は苦手で、感情に流されてしまうのに、今日に限っては全部頭で合理的に考えられている。

ああ、世の中の人は、特に世間的に認められるような人はだいたい、ものごとの対応の仕方が合理的なんだなと思う。

合理的というのは、言葉と行動が一致していること。頭で考えることと現実の対応に矛盾がないこと。

世間では、筋が通っているとか、理にかなっているとか、そういう人のことを称賛する。

言ってることとやってることが違うとか、いろいろ言ってるけど行動が伴わないとか、ふわふわと考えなしに動くとか、意識が飛んでしまっているようなミステリアスな人のことは軽んじる傾向があると思う。

よく、生活困窮者を助けるボランティアなどの話を聞いていて、困った人の例として出てくるのはこうしたミステリアスな人が多いように思う。一ヶ月分の生活保護費をすべてゲームにつぎ込み、食費がなくなってしまうとか、ツッコミどころ満載の不思議な人。

どうしてもそうなってしまうんだ、と本人が言っても、世間の人はそうした人のことを理解できないし、結局「自己責任」と言って切り捨ててしまいがちなんじゃないかなと思う。

わかりやすいものが好かれて、理解しづらいものは敬遠される。

私は人から敬遠されることが時たまあるけれど、それはわかりづらいからだと思う。

そんな私から見ると、でも、ガチガチの「筋が通った人」「合理的な考え方をする人」は逆に理解できない、宇宙人のような存在。

昔、アルバイト先などによく、ヤンキー上がり的な威勢の良い中年女性などがいて、何か彼女たちなりの確固とした正義とか主義信条にもとづいて言動しているらしいのだけど、私から見ると理解不能

彼女たちの正義はどうやら、人間世界全般に通用する正義とか常識というものらしいけれど、私がそもそも「人でなし」だからだろうか、いくら声を大にして言われても分からないものは分からない。そういう常識を教えてもらえるところへ行って叩き込めとグイグイ責めてくるのだけど、迷惑なだけだ。会社へ行っていたときも、そういう分からないことがいろいろあったのだけど、未知のものとして触らないでおいた。

まあ、だからといって、生活保護を一日目ですべて使ってしまう人の思考回路が理解できるかと言ったら、それも分からないので、人間はみんな人それぞれなんだなぁというありきたりなオチにとどめておく。

 

話が飛んだけれど、今日はとにかく頭がスッキリしている。頭がスッキリしているのは気持ちが良いな。

定型発達の人はきっといつもスッキリしているのだろう。

先程書いた正義とか常識というのは、定型発達的な世界の正義や常識ということなのだろうな。

 

スッキリした頭で、最近ずっと書いている、私はそのままでいい、というフレーズを何度も復唱し考える。

あらゆるところで使える万能的な特効薬。どんなミスをしても、人を傷つけたとしても。

この視座を常に確保できていれば、大体のことは乗り越えられる気がする。

むしろ、この態度を堅持した上で、その後の処理に取り掛かったほうが有効なような気がする。

そうしたらいつもスッキリと、頭で考えたことを冷静に行動に移せる、ような気がする。

自分が大好きで、自己肯定感が高いほど、生きやすい。

自分を認めていることが、生きる上での大前提なのだという気がする。

私はこれがぽっかりと欠けていて、常に他人の目でしか自分をはかることができなかった。批判されれば批判者の目で自分を批判し、称賛されれば有頂天になり、自分というものが抑圧され、苦しかった。